固く握り締めた拳の内側が、汗でじっとりと湿っている。
ジャージの下で、吸汗性に優れた白いシャツの能力の限界を超えた汗が、背骨や胸板を伝って流れる。
血液以外の体液がすべて汗に費やされているのだろうか、口の中はひどく乾燥して、気持ちが悪い。
ホテル玄関口、グラウンド脇で、淀川譲二(よどがわ・じょうじ/男子14番)は
頼本拓己(よりもと・たくみ/男子15番)と対峙していた。
単純な謀略のはずだった。
直後に出発する頼本を出口で待ち構え、荷物を奪った後、仲間にならないかと誘いをかける。
ただ、それだけの簡単な手順のはずだった。
荷物を奪ってしまえば、少なくとも支給武器とやらで迎撃される恐れはない。
そうなれば殺してしまうのが最も策として適切ではあるが、――いかに譲二といえども、
人殺しに手を染めることには、いくばくかの抵抗感がつきまとって離れない
(万引きや喧嘩やカツアゲなんかとは、理屈ぬきで格が違うように思えた)。
仲間にしてしまえば、手を汚さずに済むばかりか、弾丸避けにも、斥候にも、なんなりと利用ができる。
逃亡したらしたで、それは仕方が無いだろう。
なんにせよ、目つきこそ鋭いものの、小学生みたいな外見の頼本は、
譲二が少し威嚇すれば簡単に屈服させられそうだった。
殺さずにおこうと考えた時点で、自分の度胸のレベルを認識しておくべきだった。
その程度の軟弱な度胸で従えられる相手では、なかったのだ。
譲二は、後悔した。
五分前に戻れるなら、当時の自分に今の状況を耳打ちしてやりたい。
「何か?」
布施綾香(ふせ・あやか/女子8番)の死体と譲二とに、
それぞれちらりと冷たい一瞥をくれ(そう、死体にも譲二にも「公平に」冷徹な視線を寄越した)、
頼本は口を開いた。
二個の眼球は、譲二の肩越しに広がる会場を淡々と観察している。
けして、譲二と視線が交わっているわけではない。
そうであるにもかかわらず、睨み据えられるのに似た不快な威圧感が、
譲二の精神をダイレクトに萎縮させようとする。
もちろん、(人生を語るには充分に長い期間であるとは言えないが)今まで生きてきて、
こんな経験をしたことは一度もない。
「……寄越せよ」
「は?」
「おまえの、――荷物だ」
幸い、声は震えていなかった。
おかげで、苦心して腹から押し出した、必要最低限の言葉にはかえって凄みが付加された。
切れ切れのせりふは、まるで、猛獣の低い唸りみたいに聞こえる。
並みの生徒であれば、間違いなく震えあがり、荷物を放り出して逃げていただろう、
――譲二にはもはやそれを想像する余裕も無かったけれど。
不幸にも、譲二の演出とは比較にならない恐怖を頼本はほとんど無限に放射していて、
譲二はすっかり圧倒されてしまっていた。
正直言って、それを隠し、平静を装うので手一杯だ。
拭いがたい焦燥感が、譲二の心の内で警鐘を打ち鳴らす。
特に睨み合っているわけではない。
まして、武器を向け合っているわけでもない。
それなのに、この異様なまでのどす黒い緊迫感。
逃げるべきだ、たぶん。
光を帯びてちらついた最良の選択肢は、しかし、譲二の些細なプライドによって即座に捻り潰された。
確かに、得体の知れない転校生は、不気味だ。
いったいどういう事情で転校してきたのか?
前の学校では、どう過ごしていたのか?
性格は? 成績は?
疑問は挙げればきりがなく、そのすべてに現段階で用意されている答えは、「謎」の一言。
だからといってここまで怯えるなんて、馬鹿馬鹿しい。
よく見れば、たいして鍛えた風でもない、どちらかといえばひ弱そうな、しかも、
小学生としか思えないような見てくれをしているではないか。
正体不明の恐怖感も、プログラムという生命の危険の差し迫った極端な場の魔力が見せる、
幻影に過ぎないのだ、きっと。
半ば強引に自分を言いくるめ、譲二は両足に力を込めなおした。
足の裏まで汗ばんでいて、とても、気分が悪い。
ぬるい風がほんのり頬を撫でたが、そんなものでは到底、癒されなかった。
靴底の下で、タイルの隙間に溜まった砂がたてた、じゃりっという音がやたら耳に障る。
「荷物を、寄越せって、言ってんだ。入ってんだろ? ――武器とか、食料とか」
少し腰を落とし、大袈裟な動作で右手を前方に突き出した。
天を向け、開いた掌で催促する。
頼本の眉が、ごく僅かに動いた。
「そいつを殺ったのは、俺、だ。死にたくなかったら、俺の言うことを、おとなしく聞け」
布施綾香の死体を顎で示し、駄目押しする。
唐突な思いつきにしては、上手い嘘だと思った。
心の中でちょっとだけ布施綾香に感謝し、手を合わせた。
「ふうん」
頼本が、笑った(ように見えた)。
可愛らしい唇が微小な空間を作り、その両端はほんの少しだけ上がって、笑みの形ができていた。
殺害経験の暴露によって、若干ながら優位に立ったのは譲二であるはずなのに、どういうわけか、
譲二はいっそう追い詰められたような気がした。
背後には頑強な壁がそびえ、眼前には魔界から気紛れに降り立った悪魔。
もう、逃げられない。
何の根拠もないけれど、そんな感じがした。
「交換条件で、構わないか? 荷物は、やる。しかし、命はやらない」
鼻先で笑い、譲二は、わざと即答を避けた。
横柄で、動じた様子の無い口調だったが、――要するに、
荷物をあげるから殺さないでください、という弱気の申し出だ。
にわかに譲二は余裕を取り戻した。
恐るるに、足りない。
譲二の心中の変化を知ってか知らずか、表情を変えないまま、頼本は続ける。
―――それは、意外な申し出だった。
「できれば、一緒に行動してくれると助かる。
俺はたった今転校してきたばかりで、このクラスの連中がどういうやつらなのかさっぱりわからない。
それに、二人で組めば、効率がいい。
一人でずっと全方位を警戒し続けるよりは、分担するほうが神経の擦り減りかたも違うだろう」
予想もよらない回り道をしたにもかかわらず、その結末として、譲二の当初の目論見は、
見事に成立しようとしていた。
やはり、逃げるという選択肢を早々と破棄したのは、間違いではなかったのだ。
あまりの好転ぶりに、気味の悪い違和感がないこともないが、それでも、
さきほどまでの威圧感に比べれば、瑣末な問題としか思えない。
この喜ばしい事態を早く恒久的なものにしたかったが、焦りは禁物、
可能な限り有利な立場を得ておくには、頼本の意見に手放しで賛同する素振りなど見せるべきではない。
渋い表情を作り、ほんの少し顎を持ち上げて、譲二は言った。
「同盟――休戦協定、か」
「ま、そんなところかな、最後の二人になるまでは」
数秒の、間。
眉を寄せ、腕を組み、脳内に考えを巡らせる、――フリをする。
口元に頼本の視線が注がれているのがわかる。
「いいぜ」
交渉成立。
生命の保証と共闘者を得る対価として、頼本はデイパックを投げて寄越した。
この場でのやりとりに関する勝利は、一片漏らさず譲二のものだった。
だけど――、嫌な汗が引かないのは、何故なのだろう?
譲二だって馬鹿ではない、当然、この謎の転校生を頭から信用してなどいない。
警戒心だって忘れていない。
とするとこの汗は、心の発する警報、あるいは警告――?
「とにかく――、ここでボンヤリしているわけにもいかない。
もうじき、禁止エリアとかいうやつにされちまうしな。
どっか安全そうな場所に移動しようぜ。自己紹介は、その後だ」
自分自身に言い聞かせるように、移動を提案する。
返事を待たず、譲二は、目に付いた森の方向へ歩き出した。
背後をついてくる頼本の気配が、確かにした。
【残り 23人】
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